鮑川鮎夢の備忘録

日々感じたことを、オールジャンルで脈略なしで書き綴ります。

10年前の今頃の話

2006年3月下旬。世間では、第一回のWBCが開催されていた頃、俺は28年の生涯で最もショッキングな出来事に遭遇する事になった。母親がガンになったのだ。当時は東京に住んでおり、新卒から5年間勤めた会社を辞め、転職活動の最中だった。

父親から、落胆しきった声の電話を受けてから覚悟は決めていた。ハッキリと【ガン】とは言わなかったが、それを話す声は正直だった。
母方の祖父母は共にガンで亡くなっている。祖父は60歳、祖母は50歳。それを鑑みれば、信じたくはなかったが
そう思わざるを得なかった。

それから一週間ほどして母親の手術当日。上野の神社で買った健康祈願のお守りを母親に渡す。母親は涙を流して喜んでくれた。
「頑張ってね!」と声をかけ、手を握ってから、母親は歩いて手術室へ入って行った。そして4時間後、最悪の瞬間が訪れる。

手術室から出てきた主治医が、どす黒いソフトボールくらいの大きさの臓器を持って現れた。
俺「これ、どの臓器なんですか?」
医「これ自体がガンです。かなり進行してるし、肺にも転移しています。悪性度合いもかなり強いです」
みたいな会話をしたような気がする。
話を聞いて、頭の中が真っ白になり、目眩を覚えたのは俺の人生でこの時だけだ。それでも、泣きそうになりながら
俺「余命は?」
医「5年生存率は30%くらいです」
いまいち合点の行く答えではなかったが、そんな感じだった。

この時点で、父親は本当の事を知っていたが俺には言わなかった。原発はこの時に切除したソフトボール大のガン。後腹膜という、臓器ではない場所にできていた為発見が遅れたらしい。更には肺への転移については、手の施しようがないレベルで進んでいたらしく、もうお手上げ状態だったのだ。

母親にはガンである旨は告げない事になった。しかし、本人は両親がガンで死んだのを見ているのだ。感ずかないはずがない。俺の中には、釈然としない想いが募ったのを覚えている。

二週間ほどで退院。転職先も決まった俺はGWに帰省した。母親はいたって元気だ。病人の素振りも見せない。
北海道に行きたがっていた母親に、俺が飛行機チケットとホテルの手配をしてあげた。電話で嬉しそうに旅行プランを聞いてくる母親の声は、忘れる事はないだろう。

7月初めの北海道旅行から帰ってくると、母親の体調は坂道を転げ落ちるかのように悪化していった。盆に帰省した時には、立ち上がるのもしんどそうで咳も酷かった。しばらくして入院。その後は毎週末に帰省して、病室での家族団欒を過ごす事を最優先した。

結局、母親は11月26日に亡くなってしまった。55歳だった。

ろくに親孝行できなかった、孫の顔も見せる事ができなかった、出てくる感情は悔しさが一番大きかった。
前述の通り、祖父母は若くしてガンで亡くなっている。この事態は予測できたではないかと自分を責めた。
しかし、どうにもならないのだ。

母親の死は人生最大の試練というが、まさにその通りだと思う。母親がしてくれた事の全てにありがとうを言いたい。しかし、それは叶わない。親孝行ができなかったという後悔は、どんな大金を失う事よりも大きなものだと思う。

親孝行は必ずしてください。
絶対に後悔しますから。